(撮影・雨さん)

躑躅(つつじ)が散る様は、桜と違いどこか未練がましい。
桜は散るのではなく『自ら散っていく』と表現した作家がいたと記憶する。
同じ花でも桜と躑躅とは散り際があまりにも違うように思う。
別れ際に若い彼女が「友達よ!」と念を押すように言って爽やかに握手をしてくれたが、其の声も掌のぬくもりも、心を占領して夜は明け方まで眠りにつけなかった。
文豪川端康成が『老醜』を疎ましく思い自害をした気持が良く理解できる。
溢れるばかりの若さが、生涯青春と意気込む老人の気持を若くし癒してくれるが、歳を重ねていく事の一抹の寂しさを覚える。
人は何処から来て何処に返っていくのか、永遠の課題ではあるが、自分の一生に当てはめてみると厳しい問題であると思う。
過去・現在・未来の三世の生命観から考えると、我が人生もこの地球上の舞台に立ち寄ったほんの一瞬に過ぎないかも知れない。
残された人生を、この一瞬一瞬を、悲劇の主人公ではなく、若々しく歓喜溢れる主人公として歳を重ねていきたい。
散る時は桜として散るか、躑躅として散るか、ここが大きな課題でもある。
(2007・5・14)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してくだい
スポンサーサイト