「 青木ヶ原の樹海に入って行く人が今年は多い 」 と新聞店のパートのおばさん達が話していた。樹海と言えば風穴洞に一度行った事がある。雪の富士山を背景にした七かまどの赤い実が目に浮かぶ。又このごろは人身事故で電車がよく不通になる。年の暮れは何故か事故が多いと話していた。
僕が幼少の頃、お爺さんやお母さんは畑仕事を終えて家にいた。父は戦地に行っていなかった。
ある日、僕より幼い子供を連れて婦人が尋ねてきた。我が家の隣の家が親戚なので頼ってきたが疫病神のように追い払われたと言う。「 主人が戦死して生活が出来ない 」 と泣いていた。
「 あいつは冷たいやつだなあ 」 と言いながらお婆さんがお米を袋に入れて渡していた。「 これで子供に白いお米が食べさせられる 」 と礼を言って婦人と子供は帰っていった。「 困ったらいつでも来るように 」 と激励して家族で見送った。日暮れの薄暗い道をとぼとぼと帰っていく母子の後姿が今も忘れられない。
その日の夜中になってホーホーホーと汽車の警笛が聞こえてきた。いつもより長いので 「 事故があったな 」と悪い予感がした。
朝になってお爺さんと歩いて駅に行ってみると、案の定・・・母親と子供が心中していた。綺麗に掃除されていたが踏み切りより50メートルるほど名古屋寄りに離れたところの線路に白いお米が散らばっていた。「 あの世に行っても子供にひもじい思いをさせたくないと思ったのだろう 」 とお爺さんはつぶやいていた。悲しくあまりに痛ましい思い出だ。
これは生きる気力を失った不幸の極限の生命状態で 「 地獄界 」 と言われる。他人事ではなく、誰にでもある生命状態だと言う。誰もが不幸の主人公に成りたくは無いと思う。だが人生、一瞬先は闇。行く先々どんなことがあるか分からない。いずれにしても何かあったとき相談できる人がある人は幸せだ。良い友達を持つことがどんなに大事かと思う。
調子の良いとき、景気の良いときは人は寄ってくるが、一転して苦境になると冷たいもので離れていく。そのとき初めて人の心は分かる。事があったとき人の心が分かる。
人生案内に身内との金銭トラブルの相談があった。とかく借金癖のある者は自分の生活のレベルは落とさずに他人の懐を当てにするきらいがある。僕の仕事先の若い店員でパートの人たちにお金を借りまくっていたのがいて、僕にも必ず返すからといって借りにきた。ヘビースモウカーなので「まず煙草を止めたら?」と言うと 「 止められない 」 と言う。パチンコはやるし呑み屋にも出入りしているようだ。ブラックリストに載っているというが、本当に困っているのではない。
本当に困っていても、きっぱり断ることが本人のためになる。
断らないのなら、とことん地獄の底まで付き合うしかないと思う。その場合どこまで借り方を信用できるかだとも思う。
人生、晴れた日もあれば、雨の日もある。曇りの日も、雪の日も、嵐の日もある。僕はいつも思うのだが1年365日、1日24時間、天文台から発せられる正確な時間は皆平等だ。この天文台の時間と身に感じる時間との相違である。同じ1時間でも病院での待ち時間は長く、デートのときは瞬く間に過ぎる。辛い仕事や嫌な仕事は長い。仕事に打ち込んでいるときは一瞬に過ぎる。どうやら心の豊かさと貧しさに関係がありそうだ。心とは不思議なものだ。お互いに充実した一生を送りたい。
子供の頃に聞いた、あの汽車の警笛が遠く聴こえてくる。
(2003) でんどう三輪車
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- 2005/05/20(金) 04:51:33|
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