牛の涙 いのうえ つとむ
戦争が終わって何年経っただろうか。のどかな三河地方とはいえ終戦後の生活は誰もが厳しかった。物不足だった。とりわけ食料難で誰もが食べ物に餓えていた。名古屋から食料を買出しに毎日のように来た。
豊橋の空襲と豊川の空襲で自分の家の周りにも爆撃の傷後がそのままに残っていた。先に豊橋が爆撃を受けた。豊橋市は焼夷弾で全焼して焼け野原になったが死傷者は少なかったと聞ていた。豊川市には海軍工廠がありこの工場を狙らわれ爆弾が落とされて多くの人が命を落とした。豊川の爆撃の時に僕の家の田んぼにも爆弾が落ちた。幸い家屋敷には被害はなかったがその爆撃で擂鉢状に大きな穴が掘られた。その田んぼでの出来事である。
昼ごはんを食べていた。中学校の同級生にはラジオドラマの「鐘の鳴る丘」と同じような「海の家」という孤児院があって戦災孤児も同級生に何人かいた。でも彼らより貧しい人がいた。
隣の席の小林君の弁当の中身がいつものように米粒がほとんど入っていなかった。南瓜と人参と薩摩芋の弁当である。僕は農家なので麦飯だけれどお米のご飯だった。彼は父が戦死してお母さんと妹さんと三人で親戚を頼りに疎開してきた人だった。あまり気の毒なので「半分ずつにしまいか」と話しかけた。小林君は「僕はこれでいいよ」と遠慮していた。弁当を机に置かず膝の上で隠すように食べていた。その時に「井上君、田んぼの方へ帰るように、家からお電話ですよ・・牛が倒れたんだって!」と女の先生の声がした。
早引きして急いで蓮華の花を踏みながら田んぼに帰って行くと、田んぼの真ん中に牛が倒れていて、父や叔父さんや近所の人が集まっていた。僕が世話をして育てた牛なので知らせてくれた。「これが最後かもしれないから会わせたかったのだ。お前に会わせずに連れて行ってはなー」と父が言ってくれた。
農業といえば牛の働きに頼っていた。牛の糞は堆肥にして貴重な肥料となり、牛がいなければ農業は成り立たなかった。
牛はほとんどが和牛で田畑の耕作に、運搬にと欠かせない大事な家畜であった。たまに乳牛のホルスタインを飼育している農家もあったが何軒も無かった。
戦時中に朝鮮牛といって赤毛のおとなしい牛が日本に入ってきて、この赤牛を和牛と同じように農耕に使い飼育する人もいたが珍しかった。
どの牛にしろ牛の働きが頼りであった。
まだ耕運機も無かった。自動車は消防車と病院にあったぐらいで見かける事はまず無かった。運送業では牛車がオート三輪車に変わりつつあった。だが農家では誰も高価なのでまだオート三輪車を持つ人は無かった。お医者さんも自転車かスクーターで往診する先生が多かった。そういう時代なので牛は大切な家畜であった。
その大切な牛が倒れたのだ。
「今まで牛が倒れたことは一度も聞いたことが無かったなあー」
「朝から元気がなかったからのう」
「仕事がきつかったかのん」
「鋤で土を耕すのが重荷だったかのう」
「すぐに疲れたのか、ハッハアー息をしていたのでのう」
「どうしたら良いかのん」
「チョットやソットでは動かんでのん」
そんな話をしている時に獣医さんが来て、診察をしてから
「もう治りそうも無いよ」と小声で言った。
「足は折れているかのん」と父が聞いた。
「折れてはいないと思うが、内臓から来ていると思うが」
獣医さんは足は折れていないと診断していた。
「熱も高いようだし、諦めたほうが良いかのん」
父は諦め切れないようだった
「肉にしても・・これじゃあ・・安くなるでのう」
「しかたがないかのう」
祖父も叔父さんも近所の人も同じようなことを口々にしていた。
「それでも、もう一度立たしてみまいか」
「立ってくれれば良いけれど、やってみようか・・」
「それ!」
「よいしょう!」
「ボウ・・ボウウ・・シッ・・シッ」
「ボウ・・ボウウ・・シッ・・シッ」
どんなに手綱を引いても一向に立ち上がろうとはしなかった。
「やっぱり駄目かのう」
「ソリを作って他の牛で道まで引いて出してみるかん」
「そうするしか無いで」
「ほう・・あんたんとこの赤牛を借してくれまいか」
「ああ・・良いよ・使っておくれんよ」
急ごしらえに板と丸太でソリを作った。ソリといっても簡単なものであった。牛をソリに乗せるのがまた一苦労であった。
僕は牛の頬や首をさすってやった。牛の目は熱に浮かされているようで、苦しそうな息使いだった。
綱を牛にかけてその綱を担い棒にくくりつけて4人の大人が担いで牛をソリに乗せた。
おとなしい赤毛の朝鮮牛を連れて来てソリを引かせた。代掻きの前なので田んぼには水を張っていなかった。水が少ないので滑べりが悪く農道まで出すのに手間がかかった。黒牛はソリに横むきのまま乗せられ、よだれをたらして苦しそうに喘いでいた。赤牛は振り返り、振り返り、何度も倒れた牛を見ながら急ごしらえのソリを引いていた。
やっとの思いで農道に出した。しばらくしてオート三輪車が到着した。
屠殺場の人が来ると、どの牛も敏感に察知して、畜生の感が働くのか、その時はほとんどの牛が少し暴れて抵抗したものだ。
この赤牛もやはり屠殺場の人を察知したのか、目に涙を流していた。
振り返り、振り返り、田んぼの中でソリを引いていた時も泣いていたであろう。
牛も人間と同じように悲しい時は涙を流すものだと思った。
やがて牛を乗せた三輪トラックは、タンポポや蓮華の花が咲く夕暮れの農道を去って行った。
萌える若緑の木立の中に三輪トラックが見えなくなるまで、みんなで見送った。母や居合わせた女の人達は涙を拭いていた。
僕はこの時の光景を忘れることは出来ない。
夜になって牛小屋の前にたたずみ、いなくなった牛のことを思い返していた。この牛は僕が世話をしてきた。朝早く刈ってきた草と稲藁の飼葉に少々の小麦や雑穀と糠を程よく混ぜて食べさせた。今日はまだ少し食べ残しがあった。新しい敷き藁と牛乳そのままの牛の匂いが漂っていた。
どの農家も子牛を買ってきて成牛に育て上げ農耕に使った。頃合を見て売り払い現金収入にして来た。だが今までの牛と違って、この牛は太ってはいたが何処と無く丈夫では無いように常々感じていた。おとなしい雌牛で僕になついていた。
牛は人をよく見る。人を見て言う事を聞くのである。こちらの目を見て服従するか、しないかの判断をするのだ。
牛は自分より強いと思えば服従し、弱いと思うと従はない。それどころか、頭を下げて角をサクり上げて攻撃して来る。人を間違えてそれをやると「なめたまねをシャーがって」と鞭や棒で打たれるのだ。牛が角を向けそうになると僕は逃げてしまう。僕は気の強い牛は苦手だった。近寄ると角を出してくるので、気の強い牛を僕は避けていた。
その僕の弱気を見透かして家で飼育していたほとんどの牛は僕を甘くなめ切っていた。だから今までなるべく牛には近寄らなかった。兄は農家の後継ぎの自覚があるのか平気で牛を使いこなした。兄はたいしたものだと感心していた。しかしこの牛だけはおとなしく僕によくなついた。だから僕が世話をしたのだ。可愛がって育てた。
いろいろ思いめぐらして何時間も時間を忘れ牛小屋の前で過ごした。
「牛は処分されて牛肉となっただろうか。牛の命は何処に行ったのだろうか」・・と思いながら夜空を見上げていると、スーと流れ星が一つ東の空から西の空に消えていった。
牛の命と関係は無いだろうが、何故か気になって仕方が無かった。
(2006・2・15)
(以前書いたエッセイですが戦後の時代と三河弁で読み辛いかもしれません)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
スポンサーサイト
- 2010/02/26(金) 22:47:00|
- 小説・エッセイ|
- トラックバック(-)|
- コメント:2