樹が好きだ いのうえ つとむ
僕は樹が好きだ
樹に囲まれて育った
だからこの上もなく
樹が好きだ
団地の樹が
桜や欅まで
30年経って育った樹が
無造作に切り倒されると悲しい
根がコンクリートを持ち上げ
痛めるからと言うのだが
それならコンクリートを取り払って
砂利を敷けば良い
春の芽吹きをじっと待って
吹雪さえ耐えしのいでいる樹が好きだ
透明な青い空に繊細な枝を伸ばしている
何の飾り気もない冬の樹が好きだ
頬を寄せて樹の声を聞いてごらん
沈黙の声を聞いてごらん
みずみずしい樹液が春の芽吹きを待って
貴女の血液のように躍動しているよ
あの裸木の飾らない姿が好きだ
貴女は「父のぬくもりを感じる」と言っていた
そうして樹に抱かれたいと
その太い幹の温かさよ
(2006・1・30)
(この詩は雨ちゃんの写真と添え文に感動して・雨ちゃんに贈る)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/30(月) 17:12:20|
- 私のうた|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:6
バクチノ木
賭博で負けが入り,モロハダ脱ぎで…?
そりゃ,よく見ますよ,股引とかステテコ姿で。,なぜか腹巻はしてるヒトが
おととい,来やがれ~ポーーンて追い出される図はね。
でも,「木」がかわいそーじゃござんせんか!
そう,思いませんか?
この寒空に葉も落とさず,。 (雨ちゃんの詩文より)
/////////////////////////////////////////////////////////////////
1月29日新年会に呼んで頂いた。有山さんと大家さんが海老名の駅まで来て車で立ち寄って下さった。約束の6時15分を15分ほど遅れた僕を拾ってくれた。
テレビで「良い仕事をしていますねー」と多くの人の関心を寄せるようになった「なんでも鑑定団」の先生たちと、同じような仕事をされている古物商の河井さんのお宅にお伺いした。するとすでに僕の子供同然の年代の一番若い鮎釣のプロのライセンスを取った近藤君がすでに良い顔色になって座っていた。
みんなで今年も仲良くやりましょうと乾杯して奥さんの作られた御料理に「美味しい」「美味しい」と舌づつみをしながら話が弾んだ。
大家さんはまったくお酒は駄目で口にせずニコニコ相槌を打っていた。
僕もお酒は駄目だが口当たりは好きだ。これは美味しいというのでお猪口一杯ほどの清酒を頂き唇を濡らしてみた。
鮎釣りの仲間なので鮎竿やタモや仕掛けの話が弾んで、「何処の場所が良かったか」とか「何処に行きたいか」とかの話は夜が更けることも忘れて話は尽きなかった。
話の中でスロットとパチンコの話になった。7万円つぎ込んで一つも出なければ詐欺罪が成立するという話が出た。
有山さんは「学生時代はのめりこんでいたが、知り合いにパチンコ屋さんがいてその実態を知ってからは一切パチンコには手を出さなくなった」と話していた。
無我夢中にになるとブレーキが利かなくなり貯金通帳を片手に銀行へ足を運びながらお金を何万とつぎ込んでしまう。「麻薬みたいだ」と異口同音に話していた。
家庭崩壊の人を知っているので僕はギャンブルはまったくやらない。だから皆さんの話の聞き役になっていた。「目的を持って学んだり仕事をする者は、勝負事は禁物だ」と友人と話していた20代の頃をふと思い出した。木の皮がはがれて丸裸になった木を「博徒の木」と名付けられたのにはあまりに人間臭さく何故か木に失礼なような気がして木が可哀想だと思った。
有山さんと大家さんは午前1時過ぎになってお酒を飲まない大家さんの運転で帰宅された。近藤君と僕は残って泊まることになった。
寝しなに少し話をしたが二人ともすぐ眠りに就いた。朝起きてみると河井さんは熟睡されていたので奥さんに見送られて車に乗った。河井さんのご夫妻にすっかりお世話になった。帰りは八王子まで帰る近藤君が橋本の駅まで送ってくれた。良い釣り友達が出来て今年の鮎つりは楽しみである。
(2006・1・30)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/30(月) 12:49:29|
- 小説・エッセイ|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:11
これは本物 いのうえ つとむ
3時の約束が15分ほど遅れてしまった。昨日は雪でメール便は休み、その付けが今日来ていつもの倍以上の配達だ・・途中で事情を携帯電話で話しておいたが、あまり遅くなるといけないと思いながらサンデサンに入った。ブログで知り合った人と逢うのは初めて、僕は写真で彼の顔は知っているので一番奥で本を読んでいるのを見てすぐ解った。
親子ほど・・いや孫かもしれないほどの年齢差は何処へやら、話が弾んだ。彼は新人の野木太郎という役者さんなので以前読売のコラムに書いた夏木マリさんの話の概略を話した。そうしたら彼が帽子を取った。
ア!坊主頭だ!これは本物!と思った。少し前に坊さんの役をしたというのだ。夏木マリさんの事を書いたコラムのエッセイは次のとおりである。
/////////////////////////////////////////////////////////////////
一線を越した者と越せない者 いのうえ つとむ
夜中の1時ごろか2時ごろ・・・ふと目が覚めてテレビを見ると京都の街を歩いている黒い靴を履いた黒い服の尼さんが映っていた。よく見ると女優の夏木マリさんだった。どう見てもカツラではなかった。そうすると舞台の役柄で髪を剃ったと解説された。美人は髪があっても無くても美しい。しっとりと京都の町に溶け込んでいて、なぜか秘められた色気さえ感じた。しかしたいした度胸だと思う。芸人の中の芸人だと思う。役とはいえ髪は女の命。そう簡単に落とせるものではない。
僕がいつも思うのは長髪に戦闘帽をかむった軍人の俳優だ。子供の時見た兵隊は将校もすべてイガグリ頭だった。その長髪を見ただけで興ざめしてしまう。それに反して夏木マリさんの芸に対する打ち込みには感心した。昔・「楢山節考」という映画があって、田中絹代が主演した。山に捨てられていく老婆を演じた。老婆を演じるのに前歯を全部抜いてしまった。それを聞いて一流の芸人の執念に驚いた。恐れ入った。だからこの映画は鮮明に記憶している。ある一線を越したものと越せないものこの差はここにあるように思う。
僕は器用にこなせるが、何をしてもこの一線を越せないのはこの執念の無さだと思う。僕が始めて映画を見たのは、村祭りの神社の星空の下の野外上映だった。
お祭りと言えば毎年・田舎芝居だったが、村の青年たちがこの年は映画にした。題名は忘れたが新人俳優・三船敏郎だけは覚えている。地べたに筵を敷いて海苔巻きの寿司を食べながら見た。それからほど経ってから街に行き、「羅生門」と「無法松の一生」と「楢山節考」を見た記憶がある。近所の友達が名作だから見たほうがいいと教えてくれたので、それぞれ見に行った。今思うと見ておいてよかったと思う。街まで出るのが面倒なので他に映画を見た記憶は無い。
最近はテレビをつければ簡単にドラマも映画も見られる。だが良い映画が無いのかすぐに忘れてしまう。いや・年のせいかもしれない。
/////////////////////////////////////////////////////////////////
彼は初めてブログで知り合った人がどんな人か半ば恐ろしい気がしたと言っていたが正直なところだと思う。まったく見ず知らずのお爺さんと逢うのである。人の出会いとは不思議なものだ。増してインターネットという電波を通じて知り合った新しい出会いである。年齢の差は大きいけれどこの出会いは大事にしたい。新しい友人・野木太郎君の大成を祈りつつ筆を置く。
(2006・1・22)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/22(日) 20:40:47|
- 小説・エッセイ|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:8
軍靴 いのうえ つとむ
日本は戦争に負けてすべてが一変した。
小学校で講堂に飾られ神として拝んでいた天皇陛下の写真がまず無くなり、教科書は軍国的な箇所は墨で黒く塗りつぶす事になった。小学校に駐屯していた兵隊はそれぞれ帰って行った。我が家の隣の家が昔、村長をしていた家で客用の別室があった。その離れの部屋に将校が間借りして綺麗な奥さんと住んでいた。やがて終戦と同時に帰っていった。将校は妻帯が許されていて子供心に「不公平だなあー」と思った。小学校の講堂や教室で寝起きしている兵隊と大きな差があるように思った。その軍隊がいなくなった教室や講堂に入ると蚤だけが残されていて、ぴよんぴょん這い上がってきた。
確か教室にはマッカーサー元帥の写真が飾られた。アメリカ一辺倒になった。あまりの変わりように誰もが戸惑った。
やがて父も復員してきた。父の一回目の召集は僕がまだ2、3歳ごろで支那事変の中国の戦地に行った。幼少の頃なので復員してきた事は何も覚えていない。二度目の召集は御前崎に駐屯した。父の話によるとアメリカ兵が国土に上陸してきた時に備えて兵隊を集めたようだ。父のように年齢のいった者や甲種合格にならなかった背の低い人もいたようである。
笑い事では済まされないかもしれないが武器らしいものは無く小銃すら不足していたようだ。食べるものが無く兵隊さんは手分けして農家に米やサツマイモや野菜を買出しに行ったそうだ。農家の長男で農業をしていた父がリュックを背負って買い出しに行ったと言うから皮肉な話だ。ひどい戦争である。まだ父は内地なので笑い事で済まされるが叔父さんのようにビルマで戦った兵隊は戦死した友軍の食べ物を食べ、蛇を食べ、トカゲを食べ、口に入るものは何でも食べて命をつないだようだ。
父が持ち帰った物で軍靴があった。軍靴は大事にしていた。それも牛革では無く豚皮の靴であった。毛穴が3ッ三角に並んでいて豚皮と一目で分かった。シナ事変の時も軍靴は最も大切なな備品であったと父は言っていた。歩兵は名前のごとく歩く兵隊である。厳しい環境の中で歩けなくなれば死を招く。今僕は何気無く自由に歩いているけれど歩けることは幸せなことだと思う。
人は足から弱るというが最近疲れると足先が痺れてくる。配達という仕事柄この足は大事だ。そして靴も大事だ。大げさに言えば兵隊さんの軍靴のように大事だと思う。履き慣れているので3度も修理をした。100円ショップで踵の底の修理用のゴムを買ってきて貼れば簡単に直せる。所々ほころびもあって妻は新しい靴を買うように言うが、もう少し履いてみようと思う。自分にとって父の軍靴のように愛着があるから手放せない。
(2006・19)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/19(木) 09:10:38|
- 小説・エッセイ|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:6
雪に想う いのうえ つとむ
今年初めて雪を手にしたのは、1月8日、日曜日に田舎へ法事で帰る途中で立ち寄った箱根登山鉄道の小さな駅のホームに降りた時だ。大平台の駅のホームに植えて在る花壇の上に積もっている雪をつまんでみた。三,四日前に降った雪で表面は凍って滑らかになっていたが中は新雪のままだ。柔らかなさわり心地に思わず口に入れたい衝動に駆られた。見上げると崖の上から氷柱が7,8本垂れ下がっていて水晶のように輝いていた。2日ほど晴天が続き日のあたるところは雪も解けて日陰に残雪が山をまだら模様にしていた。
僕の育った三河の温暖な気候は年に2、3度雪が降り、10センチほど積もった。朝起きてみると銀世界で舞い上って外に跳び出た。新設を踏むと自分の足跡が残り気持ちの良いものであった。雪合戦をして遊び、雪だるまを作った。あたり一面の雪が解けても雪だるまだけは残って座っていた。かまくらの雪の小さな部屋がうらやましかった。
雪というと「雪の降る街を・・思い出だけが・・」という歌のように、肩に降りかかる雪を払いながら歩く、そういうイメージが強かった。
この冬は雪国が記録的な大雪で、吹雪が電車を転覆させた。又家が積雪で押しつぶされた。そして多くの犠牲者が出た。これほど雪の恐ろしさを思い知らされたことはなかった。
3メートル、4メートルもの雪が積もるとは、テレビの画面を見て驚くばかりだ。雪国の人たちの苦労を知るに付け、今まで描いていたのどかな温泉の野天風呂の雪景色と現実の厳しさとが心の中で葛藤している。
それでも2月までに又この横浜でも雪が降るだろう。
そのとき今までのように新雪を踏む心地よさを味わえるだろうか、どうだろう。
(2006・1・15)
(雪国の皆さんのご苦労を偲びながら)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/15(日) 02:30:34|
- 小説・エッセイ|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:6
/////////////////////////////////////////////////////////////////
KOKOROとあたまで考えて(ちえさんの詩)
人の意見 人の話
いっぱい聞いて
悩んで悩んで考えて
それで出したあたしの答え
あたしはやっぱり
自分に素直に生きてみます
/////////////////////////////////////////////////////////////////
自分に素直 いのうえ つとむ
嬉しいときは無邪気に笑い
悲しい時はしくしく涙を流し
赤ん坊のように
誰にもお構いなく
笑うことが出来たら
泣き叫ぶことが出来たら
心のの中の塵のような
小さなわだかまりも
吹き飛ぶだろう
雨上がりの空のように
(2006・1・4)
(この詩は・ちえさんの詩に寄せて・ちえさんに贈る)
拍手喝采!・・パチパチ←ここをクリックみなさん応援してください
- 2006/01/04(水) 10:04:18|
- 私のうた|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:13