12月にもなるとさすがに朝は寒い、桜の落ち葉は意外と赤いものだとか、銀杏の葉は中々腰が強いとか思いながら、メール便の配達で街路樹の落ち葉を踏み少し奥まった家の前に来た。珍しく奥さんが白い猫を抱いて玄関に出てこられた。「真っ白ですね、可愛いですね」といつものように挨拶をしてから声をかけた。あまりに綺麗で品の良い猫なので「外国の猫ですか」と思わず口にした。「いいえ、日本の猫よ、それも野良ちゃん・・赤ちゃんの時、カラスに突付かれて後ろ足が動かなかったのよ」。よく見ると、なるほど後ろ足を引きずっている。「リハビリしてね、少しよくなって歩けるようになったのよ」。もし男なら貴公子、女ならお姫様、そう思われるほど気品の在る真っ白な猫である。僕が初めて見た交じり毛の無い白い猫だ。外に出たがるので玄関の柱に紐でつないでおくという。前に書いたエッセーの「三毛猫ミー」の鎖につながれた姿を思い出した。「放してしまうと他の猫の病気を移されるからね」「猫にもエイズが在るそうですね」「そうなのよ、猫にもエイズが在るのよ、怖いわねー」と話しながら真っ白な毛並みをなぜてみた。手入れの良い柔らかな毛だ。前の飼い主に捨てられカラスに襲われていたのを、幸運にも今の飼い主に拾われ、恵まれたごくまれな猫だと思う。
夕刊を配達している団地のゴミ置き場でいつも茶色の混じった黒い猫に合う。二ャーと鳴きながら僕の顔を見ると野生の性か垣根に隠れる。一度隠れてから、またでてきて挨拶をする.薄汚い猫だけれど可愛いものだ。言うなれば「猫のホームレス」だ。行動の鈍さを思うと年寄りのように見える。時々中学生の少女が背中をなぜているのを見かけた。在るとき二羽のカラスがこの猫を攻撃していた。僕が近くに寄って脅すとカラスは何くはぬ顔をして少しはなれたところでこちらを見ていた。年老いた黒猫は防戦一方で、もう少し遅ければ大怪我をしていたと思う。カラスの嘴は特に厚く丈夫だから、かなわないだろう。
それにしても最近は「黒猫ホームレス」の姿を見ない。どうしたのだろうか、心配である。元気ならば良いが、これから一層寒くなるのに。
(2005・12・9)
(このエッセーは愛猫家・水島美也子先生に贈る)
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三毛猫 ミー いのうえ つとむ
三河の田舎町の小高い山の裾にある僕の生まれ故郷は、温暖な蜜柑畑に囲まれたのどかな20軒余りの集落で、松が茂っていて「茂松」と呼ばれていた。元々僅かな田畑を耕していた小作農で、蜜柑と米と麦と野菜と蚕の飼育用の桑を耕作する平凡な農家だった。
終戦後マッカーサーの農地改革のおかげで、借りていた田畑が自分のものになった。祖父や父をはじめ、家族のその喜びようは譬えようが無い。何故かと言うと我が家の家系を遡れば、農地などまったく無い武士の端くれのようだった。井伊直弼が桜田門で襲われたとき、雪の降る江戸まで家族が消息を尋ねて行ったと子供の頃に聞かされた。明治になり、生活の糧にと水車小屋を創めて、玄米を精米にし、吉田の町まで荷車を引いて売りに行ったことを祖父からよく聞かされた。吉田といえば今の豊橋である。東海道線の駅、愛知御津、西小坂井、小坂井、そして豊橋と続く。およその距離は想像できると思う。
先祖を尋ねてみると、甚作、兵作、繁造、信久、そして僕となる。
水車小屋は兵作の代からだと思う。焼き鏝(ごて)が兵の字に山の形を乗せて「ヤマヒヨウ」と言う商漂であったからだ。
曽祖父の兵作は酒が好きで腰にひょうたんの酒ツボをぶら下げて、お喋りで、頓知がよく、ひょうきんな人だったようだ。そのひょうたんが残っていた。当時、「顎兵」と渾名され三河では有名な人物だったと伝え聞く。おかげで祖父の繁造は、子供のときから荷車を引いて働いた。わらじを何足も履き替えたという。祖父とお祭りなど親戚に行くとき、一緒について歩いていると「道を歩くときは下を向いて歩け、道には何か落ちている。釘1本でも役に立つからな。」と必ず言われた。質素な生活だった。
終戦後、父はしばらくしてから結核で倒れた。そのとき僕も父と枕を並べて療養した。叔父や叔母が帰ってきて次々と結核で倒れた。12人家族のうち5人が病に伏した。父はやがて田畑の耕作は祖父と父の弟に任せて 50羽の鶏を飼育した。療養をしながら卵で栄養を摂るためと養鶏で生活の目途を立てるためであった。当時、卵は高級品だった。食料が無く薩摩芋が主食代わりの時代だ。やがて50羽が100羽になり200羽になり300羽になった。300羽でも卵は高値でかなりの現金収入になったようだた。鶏の餌があるから鼠が多く鼠対策に猫を飼った。白黒の猫が多かった。
白黒の猫は「ぶち猫」と呼ばれ並みの猫とされていた。。白黒茶の三毛猫の雄は少なく、たまに三毛猫がいても雌だったりした。縁起を担ぐのか鼠をよく捕るのかは知らないが、雄の三毛猫が重宝がられた。ぶち猫が続いた後 、やっと雄の三毛猫が我が家の一員となった。早速「ミー」と名付けられた。ミーは頭もよく鼠獲りの名手だった。鼠を獲るときミーは物置や屋根裏でジット根気よく動かずに鼠の来るのを待ち伏せしていた。獲った鼠は得意になって家族の者に見せにきた。2年、3年と経つうちに成長して大きな猫になった。鼠では飽き足らず鶏を獲るようになった。味を覚えてしまい一度や二度ではすまなかった。隣近所の鶏も狙うようになった。さすがに父も我慢できずミーを処分しなければと言い出した。食糧難の時代なので犬でも猫でも肉屋に持って行けば買ってくれたが、殺すのは忍びないので豊橋を流れる豊川まで自転車に乗せて捨てに行った。
二ヶ月ほど過ぎた頃、聞きなれた猫の声がする。「あっ!ミーだ。ミーが帰って来た。」家族のものがあちらこちらで歓声を上げた。「よく帰ってきた」「よく帰ってきた」みんなで喜んだ。
犬が帰ってきたことは聞いているが猫が帰ってきたことは聞いたことが無いと近所でうわさになった。
しかし、このままにしておけば、前のように鶏を襲う。どうしたらいいものかと考えた挙句、犬のように鎖で繋ぐことにした。
鎖に繋られたミーは、鶏の飼料を撹拌している僕の足元に来て体をこすりつけていつも甘えていた。
(2005・7・)
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- 2005/12/09(金) 20:04:59|
- 小説・エッセイ|
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