山梨の桂川から鮎釣の帰りに骨董屋さんの河井さんが運転しながら話してくれた。「友人の紹介で伊豆の或る方が裏に土蔵があるから自由に見て良いよと言われた。ただそこはマムシがいるから誰も行かないんだ。と付け加えられたが、喜んで友人と草が覆っていて通る道を切り開きながら坂を上り土蔵に着いた。言われたとおり二匹のマムシがどくろを巻いていて驚いて引き返した。この調子だと土蔵の中にも必ずいるから危なくて・・・」と話された。その時、道志村の道路の左側に白壁の少し傾きかけた古い土蔵が見えてきた。「あの鉄の扉の錠前も僕が値段をつけて買うなら、・・・・円ぐらいかな」と値踏みされた。役目を果たし土蔵を壊して捨てられるような錠前も、それを愛玩してくれる人がいるものだなと聞いていて思った。
先日、敬愛する精神科医の森下あゆみ先生が最近読んだ本の紹介をされながら「古道具的人生」なるものを話されていて、僕もまつたく同感だ。
古道具は、美術館に飾られている高価なものではない。古道具のように多くの人は生きていて誰からもいつか忘れらてしまう。
年を重ねれば・・がたが来る。だが一瞬の輝き、面白さ、ちっぽけな幸せがある。
古道具的人生はキラキラ輝く高価な芸術的な人生よりずっと味があり、かっこいい。
幸せは成るものではなく感じるものだ。
森下あゆみ先生は概略、以上のように話されていた。
僕には孫が4人いる。博子は高校2年生、恵子は中学2年生、二人とも鼓笛の練習で忙しい。湧作は中学1年生、野球部で坊主頭で真っ黒になって練習している。娘の子供の美穂は来年小学校だ。小児科のお医者さんになると張り切っている。
みんな将来は未知数だ。一生懸命になって頑張ることが大事だと思う。
野球にしても、野茂やイチロウや松井のように大リーグのスターになる人は限られている。素質と努力と運があってのことだ。甲子園にも行けなかった人は大勢いる。僕が定年まで勤めた会社のアオイネオンの同僚に斉藤君というデザイナーがいた。彼も甲子園の桧舞台に今一歩で行けなかった一人だ。彼が野球で鍛えたものは丈夫な身体と野球のチームワークの協調性だといつも思った。誰からも「トオル」「トオルちやん」と愛称で呼ばれる人柄は、甲子園には行けなかったが野球で身に着けたものだと今も思う。彼が年をとっても彼の人間性は、古道具的人生のいぶし銀のような味があるだろうと思う。
スターとして多くの人の注目を浴び生きる人もいる。大きな組織、また大会社の長として生きる人もいる。だが多くのほとんどの人は古道具的人生だ。何の価値も無いというのではなく、その人ならではの少しでも輝くものがあれば良い。身近な人から愛されればそれで良いと思う。白壁の土蔵の錠前のように役を果たしてからも・・誰かが愛玩してくれるように。
(2005・9・9)
(このエッセイ森下あゆみ先生にお贈りします。)
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- 2005/09/09(金) 05:27:02|
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